徳川家康4

スタッフ

原作:山岡荘八『徳川家康』
脚本:小山内美江子』

第28回:7月17日:数正出奔

天正12年(1584)10月に羽柴秀吉(武田鉄矢)からの鬼丸養子の申し込みは徳川家臣に紛糾を産み、本多平八郎(高岡健二)と榊原康政(内田勝正)と井伊直政(豊原功補)らは石川数正(江原真二郎)を批判した。
徳川家康(滝田栄)は本多正信(内藤武敏)と本多作左衛門(長門裕之)と数正は返事を相談し、家康は受けて数正に名代で手配を命じ、数正は大坂城で内大臣になった秀吉から家康呼び出しの為に43歳の朝日姫(岩本多代)を離縁させて家康との婚儀を求めた。
家康はお愛(竹下景子)に胸のこりを告げ、数正から婚儀を薦められ不快と答えた、秀吉は母・北政所(吉行和子)と妻・大政所(鈴木光枝)から朝日姫の夫の自害を責められ、浜松で作左衛門は数正に実力ある秀吉との提携は急ぐなと告げ、数正は手を引くと考え作戦を相談し、秀吉と黒田官兵衛(入川保則)は数正から縁談承知と手紙を受けた。
数正は家康から縁談を遅らせろと聞き、紀州討伐中の秀吉は数正に我慢の限界と告げ任せ、天正13年(1585)7月に秀吉は関白になり、家康は腫れ物で大病になり灸の荒療治を行い助かり、正室を持つと決めた。
秀吉は諸大名に人質を求め、家康の重臣らと数正は意見が対立し、数正は作左衛門とこれきりと話し妻・加津(高田敏江)に出奔を告げた、家康は作左衛門と数正出奔は皆を驚かすと告げ、対策を話した。


演出:国広和孝

第29回:7月24日:三河の意地

石川数正(江原真二郎)の出奔で浜松城では陣揃えを全面変更し、徳川家康(滝田栄)と本多作左衛門(長門裕之)は北条氏政(川辺久造)と北条氏直(三沢慎吾)との提携を考えた。
羽柴秀吉(武田鉄矢)は数正出奔に悩み、数正に会い人質を取りやめるが朝日姫(岩本多代)の婚儀は求めた、家康は秀吉からの和睦の使者・織田有楽斎(山本耕一)と長束正家(石濱朗)に会い婚儀を受け御殿建設後と答えた。
納屋蕉庵(石坂浩二)と茶屋四郎次郎(中山仁)は家康は上洛をうやむやにしたと告げ、家康は三島で北条親子と対面したが家中は穏やかでなかった、秀吉は朝日姫に手を焼き説得した、浜松城で婚儀後に朝日姫は倒れ家康はお愛(竹下景子)に諭された。
秀吉は石田三成(鹿賀丈史)と家康の上洛策を考え、大政所(鈴木光枝)を家康に送ると告げた、朝日姫は長松丸(田遠実)から大坂の使者を聞き、家康は家臣・酒井忠次(福田豊土)と本多正信(内藤武敏)と作左衛門に時は過ぎ上洛すると告げた。
岡崎で大政所は家康と対面し、次いで朝日姫と会い喜びあい本物と判った、家康一行は大軍で上洛に出発し、作左衛門は朝日姫らの御殿を薪で囲んだ。


演出:加藤郁雄

第30回:7月31日:両雄対面

天正14年(1586)10月に徳川家康(滝田栄)は2万の軍勢で京に入り、茶屋四郎次郎(中山仁)の屋敷で本多作左衛門(長門裕之)の朝日姫(岩本多代)と大政所(鈴木光枝)に対する強引な扱いを聞いた。
家康は羽柴秀長邸に入り、突然に羽柴秀吉(武田鉄矢)が忍びで来て本多正信(内藤武敏)を遠ざけ、二人でくみ交わし、朝日姫と大政所を頼まれ、九州征伐を伸ばすのは家康が怖かったと聞き、陣羽織が欲しいと望み家康だけで戦を行うと告げ、秀吉から大坂城でも望まれた。
大坂城で家康は秀吉と諸侯の前で対面し陣羽織を望み芝居をした、石川数正(江原真二郎)は参列せず、家康は帰国前に秀吉から九州出陣は不要で作左衛門を咎めるなと聞き、家康は四郎次郎と納屋蕉庵(石坂浩二)は借りが出来たと言われ朝鮮出兵は危険だと言われた。
家康は帰国し大政所を京へ送り返し、駿府に移り城を築き人質時代を思い出した、秀吉は太政大臣になり豊臣を名乗り茶々姫(夏目雅子)に会い長松丸(田遠実)との縁談を告げたが断られた。
駿府城で家康は長松丸からお愛(竹下景子)と朝日姫への気遣いを聞き、作左衛門からお愛の病を聞き会ったが衰弱していた。
秀吉は九州征伐に行き、随風(竜雷太)は蕉庵と木の実(紺野美沙子)と秀吉の朝鮮出兵を心配し、お愛が死に、家康は秀吉の九州征伐後の対応を家臣らと話し、作左衛門からお愛の生き方を聞いた。


演出:大原誠

第31回:8月7日:妻ならぬ母

天正15年に徳川家康(滝田栄)は再度上洛し豊臣秀吉(武田鉄矢)と石田三成(鹿賀丈史)に会い秀吉は検地と刀狩りを考え、家康は官位を受け駿府に帰り、朝日姫(岩本多代)は長松丸(田遠実)と会うのを楽しみ、秀吉が呼び戻すと聞いた。
聚楽第が完成し秀吉は茶々姫(夏目雅子)から城を望まれ、北政所(吉行和子)は心配し大坂城に住みたいと望み、家康は朝日姫から京に帰る事は嫌と言われ、京で朝日姫は病になり聚楽第に留まり大政所(鈴木光枝)に看病された。
秀吉は大茶会を開き、家康は茶屋四郎次郎(中山仁)と納屋蕉庵(石坂浩二)と木の実(紺野美沙子)と本阿弥光悦(大出俊)と話し、随風(竜雷太)は捕らわれ北条氏政(川辺久造)と北条氏直(三沢慎吾)に意見し、茶々姫は秀吉の子を産んだ。
秀吉は北条征伐を決め、秀吉の使者・大谷吉継(有川博)が家康に上洛を望み北条征伐後に関八州を与えると告げ、本多正信(内藤武敏)は領地換えと告げ、本多作左衛門(長門裕之)は隠居した。
家康は上洛し秀吉に会い老いと高ぶりを感じ、病の朝日姫に会い長松丸に会うために生きたいと聞き、翌正月に長松丸は上洛して朝日姫を見舞い、朝日姫は死んだ。


演出:兼歳正英

第32回:8月14日:家康江戸入り

徳川家康(滝田栄)と本多作左衛門(長門裕之)と本多正信(内藤武敏)は大坂の豊臣秀吉(武田鉄矢)から北条征伐出発の連絡を受け、正信は関白軍受け入れの準備を行い、作左衛門は石田三成(鹿賀丈史)と言い争い、秀吉は大軍で進軍し駿府の手前で家康と会い花見気分を装うと告げ、駿府で家康と秀吉は会い、作左衛門が2人に悪態をつき我が儘を通した。
淀君(夏目雅子)は饗庭局(茅島成美)と鶴松と淀城で過ごし小田原に呼ばれ、納屋蕉庵(石坂浩二)と木の実(紺野美沙子)は家康は東に追われると話し、関白勢は2月で関八州を征服し小田原を囲み、北条氏直(三沢慎吾)は随風(竜雷太)から降伏のみと言われた。
家康は正信に「関八州移転はやむを得ない」と告げ、秀吉に小田原より東の江戸を選ぶと告げ、北条は降伏して小田原城を受取に向かい北条の家臣を召し抱えると告げた、秀吉は小田原から東に向かった。
家康と家臣らは板倉勝重(山本亘)から江戸の様子を聞き、家康は「領地ではなく活躍する場を家臣に与える」「東は関白の朝鮮攻めから難を避けて、天下を目指す」と告げ、天正18年(1590)8月に家康は江戸に入った。
秀吉は奥州をまとめて京に戻り、蕉庵と随風は大陸出兵を心配し、随風は名を天海と変えた、家康の国作りは進み、家康は天海と江戸で会い秀吉の運気が下がると告げられ、秀長と鶴松が死に秀吉は落ち込むが次の仕事を考え、関白を豊臣秀次(氏家修)に譲り大陸出兵を考えた。
家康は上洛して南蛮との交易を求めたが秀吉の大陸出兵は変わらなかった。


演出:国広和孝

第33回:8月21日:戦雲動く

天正19年(1591)に豊臣秀吉(武田鉄矢)は豊臣秀次(氏家修)に関白を譲る太閤になり、江戸城で徳川家康(滝田栄)は天海(竜雷太)と大陸出兵に反対だが助ける役目と話した。
堺で納屋蕉庵(石坂浩二)は博多商人・島井宗室(山内明)から「対馬領主・宗義智(真野等坪)と小西行長(纓片達雄)が秀吉に偽り、朝鮮へ話しが伝わっていない」と聞き、石田三成(鹿賀丈史)が来て宗室に出兵を止めて欲しいと頼んだ。
秀吉は宗室から報告を聞き、名護屋城から朝鮮を経て明を攻めると告げ、宗室は「朝鮮と明が繋がり、出兵は難しい」と告げ、秀吉は不審を感じたが方針は変えなかった。
徳川秀忠(勝野洋)が京から戻り家康と本多正信(内藤武敏)と本多正純(本田博太郎)と土井利勝(木村四郎)に出兵計画を告げ、家康は無法な命を出させぬ日頃の対応が重要と告げた。
翌年家康は上洛し「秀吉は余力で行い、自分が大陸に行く」と告げ、家康と秀吉は名護屋に行き、既に戦は始まり、蕉庵は金蔵(倉田保昭)は情勢の悪化の噂を聞き木の実(紺野美沙子)と本阿弥光悦(大出俊)に名護屋行きを頼み、大政所(鈴木光枝)が倒れた。
秀吉は自ら行くと告げ、家康と三成が止めて行くと告げ、三成と大谷吉継(有川博)と増田長盛(堀勝之祐)が朝鮮に向かった、家康は秀吉の機嫌を損ねた木の実を陣中に留め置いた、秀吉は大政所の危篤で大阪に戻るが間に合わ無かった。
秋に秀吉は名護屋で明との講和が必要と聞き、家康と黒田官兵衛(入川保則)は戦局判断を求め、秀吉は淀君(夏目雅子)の懐妊を知り、翌年に秀吉は攻めろと告げるが戦局は悪くなり、5月に三成が帰国し家康にこれ以上の戦闘は無理で和議の最後の機会だと告げた。


演出:松本守正

第34回:8月28日:渦中の人

明国使節団が小西行長(纓片達雄)らと日本に向かい、名護屋で徳川家康(滝田栄)と石田三成(鹿賀丈史)は豊臣秀吉(武田鉄矢)と和議の条件を話し、淀君(夏目雅子)が男子・拾いを出産し、三成は秀吉に豊臣秀次(氏家修)の無頼な行動の疑惑を告げた。
秀次は家臣の諫言を聞かず、秋に秀吉は大坂に戻り、家康は大坂で茶屋四郎次郎(中山仁)の行動を聞き、秀吉は北政所(吉行和子)から分不都合と宥められ、淀君と拾いに会うが秀次が呪詛したと聞いた。
家康は納屋蕉庵(石坂浩二)と木の実(紺野美沙子)から「明国との講和は難しい」「北政所と会え」「秀次が諸大名に金を貸している」と聞いた、木の実は北政所に家康の意向を伝えたが三成に疑われ秀次の処分は決まっていると聞き、帰途に斬られた。
蕉庵は三成の配下でその野望を知り、春に秀吉は桜見物で秀次と会うが和解出来ず、秀吉は体調の不調になり、家康は徳川秀忠(勝野洋)と本多正信(内藤武敏)と秀次の誘いを心配し断れと告げ家康は江戸に引き上げを考え、本多作左衛門が死んだ。


演出:加藤郁雄

第35回:9月4日:太閤死す

文禄3年(1594)秋に徳川家康(滝田栄)は江戸で本多正信(内藤武敏)から情報を聞き、豊臣秀吉(武田鉄矢)は石田三成(鹿賀丈史)から城を移れと言われ淀君(夏目雅子)とお拾いを連れ伏見城に移った。
豊臣秀次(氏家修)は動揺し、家臣の諫言で朝廷に意向を告げ、徳川秀忠(勝野洋)は秀次の誘いを断り秀吉に会い事情を話し、淀君の妹・お江与(白都真理)に会い縁談を持ちだされ、翌日に秀次は秀吉に召し捕られ、北政所(吉行和子)は茶屋四郎次郎(中山仁)から事情を聞き、秀次は高野山で自害した、三成は秀次の妻子を処刑した。
家康は上洛し、秀吉は諸侯を集めて秀頼への誓詞を求め、前田利家(瑳川哲朗)を守り役を命じ、家康は秀忠と本多正純(本田博太郎)と土井利勝(木村四郎)と正信と三成の行動を語り、家康は秀忠のお江与との縁組は運試しと告げ、婚儀が行われた。
翌年利家と家康は官位を受け、地震で伏見城が被害を受け、家康は納屋蕉庵(石坂浩二)と四郎次郎から明国との講和の真相を聞き「使者は斬らず2度目の兵を出せ」と聞き、家康は秀吉に和議を薦め使者を会わせ、秀吉は国書の内容を聞き小西行長(纓片達雄)を攻め出陣を告げた。
翌年朝鮮に出陣し、秀忠とお江与に千姫が生まれ、秀吉は醍醐の花見を行い休戦を考えた、秀吉は病で寝込み家康に千姫と秀頼の婚約を頼み政治の代行を求めた。
家康は秀吉が老いて豊臣と秀頼の事のみ考えると告げ、利家と諸侯が集まり三成の命は信じられず対立し、家康は私怨を断てと要求した、秀吉は秀頼の事を頼みながら死んだ。


演出:大原誠

第36回:9月11日:分裂の芽

徳川家康(滝田栄)と本多正信(内藤武敏)は石田三成(鹿賀丈史)が来て北政所(吉行和子)の指示で豊臣秀吉の死を知らせたと聞き朝鮮からの兵の内地引きあげを求めた。
三成は五奉行・浅野長政(金内吉男)と前田玄以(福山象三)と長束正家(石濱朗)らに家康は豊臣家を認めず北政所も反対と告げ、淀君(夏目雅子)と豊臣秀頼(谷川喜祥)はと歎き、家康と前田利家(瑳川哲朗)と五奉行は打ち合わせ、三成は淀君に家康との婚儀の噂を流した。
堺で納屋蕉庵(石坂浩二)と本阿弥光悦(大出俊)らは淀君が家康と北政所に使者を送ったと話し、家康はお江与(白都真理)と千姫と過ごし、光悦と島井宗室(山内明)は博多で小女郎(神崎愛)に三成の偵察を求めた。
朝鮮から戻った加藤清正(伊吹吾朗)と浅野幸長(森田順平)ら諸侯は三成から秀吉の死を聞き、諸侯は高飛車な態度に反発した、伏見で利家は妻・阿松(稲野和子)と三成から家康が秀吉の掟を破り諸侯と縁組していると聞き、慎重な対応を求めた。
秀頼が大坂城に入り利家が守役になり、家康は政務を行い、北政所に本丸から西の丸に移り、家康派と三成派に別れた、家康は利家から婚儀を詰問され媒酌人の連絡抜けで不都合だと答え正信に榊原康政の軍勢を近江に留まらせた。
家康は清正から屋敷の警護を申し入れられ北政所の指示と知り、家康は正信の諸大名が天下を狙う前に統一が必要と告げた。


演出:松本守正

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